キム・ミョンミンはキム・ミョンミンだ  cine21

<破壊された男>のキム・ミョンミン

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キム・ミョンミンが強いメソッド演技者であることは十分知られている。 作品ごとに彼は‘自身’の顔を捨て‘人物’の顔になる。 海の真ん中で数千名の兵士に号令した李舜臣将軍<不滅のイ・スンシン> メスを握って手術を執刀する外科医師チャン・ジュンヒョク<白い巨塔> 烏合の衆のオーケストラを指揮するカンマエ<ベートーベン ウイルス> 全身が麻痺していくルーゲリック病で愛する恋人と胸痛む別離をむかえるジョンウ<私の愛私のそばに>等、彼が演じた多くの人物から‘俳優’キム・ミョンミンの姿は探せなかった。 それだけ彼は作品の中の人物になろうと努力し、また陥った。 そんな彼が新しい顔で訪ねてきた。 <破壊された男>でキム・ミョンミンが演じる役割は拉致された娘を切なく捜す父チュ・ヨンス、誘拐犯との死闘で破壊されていく人物だ。 いつものように今回も彼はチュ・ヨンスになった。 やはり‘キム・ミョンミンはキム・ミョンミンだ’という言葉に値する。 <破壊された男>のチュ・ヨンスに対する話を聞いた。 俳優キム・ミョンミンに対するいろいろな‘話’に対する率直な考えも共に。

-物足りなさ (記者会見でキム・ミョンミンは“今回の映画で私の演技に大きな期待をしなければ良い”と話した。)
私の演技は常に惜しい。 どんな意味を巡らせることよりも毎度惜しい感じがする。 今回の映画も同じだ。 映画はよくできたが私の演技はそこまでいかない…。

-描かれない8年 シナリオを読んですぐチュ・ヨンスが破壊されていく過程に注目した。 娘を失った彼は神を捨てて世俗の人になる。 しかし8年後に突然娘が生きているということを知り封印されていた強い父性愛を取り出す、その感情の変化が劇の本質だと考えた。 特に映画は観客に8年間のことを描かない。 その間どんなことが起きたのだろうか。 どのように彼は浮世のあかにまみれていったのだろうか。 映画で省略された部分を表現するのが大変だった。 そんなことを類推してビハインド ストーリーを作らなければならなかったし、また想像しなければならなかった。チュ・ヨンスのからだ中に入って彼が8年間歩いてきた道に従って歩かなければならなかった。

-最初の原則 8年後のチュ・ヨンスの姿に対する異見があった。 監督様はすっきりしたスーツを着たクールな姿を考えられた。 もちろんクールになるだろう。 しかし私はちょっと違った。 娘が拉致され良くないことを体験した人がうまくいくわけがないよ。 事業も何度失敗したんだろう。 それと共にまあまあなことには毅然とする態度ができただろう。 またそうしなければならないのは、娘が生きていると聞いた時どうすることもできない感情を一度に爆発させるためだ。 それで理性的でもあり火のようなチュ・ヨンスを作りたかった。 また職業が事業家じゃない。 それも病院に医療機界を販売する営業職だ。 足でたくさん飛び回ってあちこち病院を訪問して物を売る社長の姿はどんなものか。 それがまさに映画の中チュ・ヨンスの姿だ。 シナリオを読みながら思い描いた人物に対する最初のイメージをそのまま守った。 反面、牧師の場合は難しくなかった。 篤いクリスチャンで幼い時に見てきた牧師の姿が頭の中に常にあったためだ。 最大限牧師らしいの姿を見せようとした。

-人物の喜怒哀楽 浴場に足を入れる前に感じる感情がある。 これは冷たい水だろうか、でなければ熱い湯だろうか。 知っていて足をつけるのはつまらない。 ‘この中に何があるのだろうか’ ‘足をつければどうなるだろうか’ 違う言い方をすれば水に入った時、お湯でも冷たい水でもそしてぬるい水でも水が私の肉に浸み込む、ふくらはぎと太ももに上がってきて、この胸とこの心臓の中までぎっしり埋まって、口と鼻まで入ってきて息が苦しくなる感情はそれぞれ違うのではないか。 それを感じたい。 そういう感情をあたえるキャラクターを、そしてキャラクターを越えて何かが私をむやみにほじくって深く究めたという話に会いたい。 チュ・ヨンスは私たちの周辺によく見ることができる人ではない。 しかしこのキャラクターを見ながら私が、このキム・ミョンミンという俳優が感じるのは本当に大きい。 骨の中がしびれて、痛くて、笑わせたりかんしゃくも出て。 ‘この人は本当に数奇な人生を生きていくんだな’といいながら愛着が湧いてくる。 本当に理解するのが難しいがこの人何か。 なぜこのようになったのだろうか。 この人は。

-俳優の顔 実際チュ・ヨンスという人は5日寝なかった。 私は演技をしなければならないからできるのは3日が限度だったよ。 映画の後半部、ネットカフェシーンは3日を夜を明かして撮った。 俳優の顔が価値がある時は美しくて格好良く見える時ではない。 その人物に陥っている時が最も価値がある。 チュ・ヨンスは壊れているのに俳優が正常でツヤのある顔で出てくればそれが俳優として果たしてできることであろうか。 それは違う。 キャラクターに生命力を吹き込むためにはその人の中に完全に入らなければならない。 チュ・ヨンスは娘を捜すために血の出る努力をしていて、同じ失敗を繰り返さないようにする。 そんな状況でどうして寝ることができますか。 絶えず追跡しなければならなくて、直ちにお金を用意しなければならない。 それで糸口を探したではないか。 あいつが好きな餌に喰いついたんだ。 夜釣りする人々が寝ている見たことがあるか? いつ喰いつくかも知れない餌を見ながら眠れないじゃない。 チュ・ヨンスもそのような心情だったろう。 そのまま目に隈をつくる化粧をして疲れるふりをしながら演技はできるだろう。 まねることはできるだろう。 しかしそれはただ技術だけのことだ。 それを観客が受け入れるだろうか? 目の前にいるスタッフさえだますことができないが?

- せりふや行動より重要なことは目だと考える。 真実の感情は目で一番最初に表現される。 演技は頭でするのではない。 心でしてこそスクリーンという巨大なカーテンを突き抜けて観客に伝えることができる。 それを目がする。 目の(パチパチさせる)ちらつくということ、小さい揺れるということが観客の心を動かす。

-ポン・ジュノ、パク・チャヌク監督の映画の中キム・ミョンミン ずっと新人監督や2〜3作品を演出した監督と作業した。 ポン・ジュノやパク・チャヌク監督など実力ある監督の映画にわざわざ出演をしないのではない。 監督様が呼んで下さらなかった。(笑) 呼んで下さっても無条件“OK”するべきことではないが、もちろん監督様に対する信頼は当然ある。 それでもシナリオを見なくちゃ。 その人物で‘俳優キム・ミョンミンが何ヶ月も犠牲にする価値がある’という気がすれば出演する。 以前よりも‘監督が誰か’を考慮するのは事実だ。 前はシナリオ中心に見たとすれば今は監督を考慮することもある。 どうであれ呼んでくれれば感謝するだろう。

-ドラマぐらい大きい成功を収めることが出来ない映画 ドラマはぴったり33.3%ずつ持っているようだ。 作家、俳優、監督、3人が各自の持分をやり遂げた時光を放つ。 <白い巨塔>がそのような作品だと自信をもって話せる。 映画は違う。 俳優が自身が持っている力量を最大限発揮して演じても後半作業で監督の裁量でいくらでも変わることができる。 それが映画だ。 私もそのような苦心をたくさんする。 (シナリオと違った結果を見る時惜しいのではないか、という質問に)物足りなさは物足りなさで終えなくちゃ。 私がどうこうできる部分ではないじゃないの?

-演技が演出を圧倒?  <私の愛私のそばに>の時そのような質問をたくさん受けた。 ‘監督の演出が俳優の演技について行けない、活用できない。’それはないと考える。 映画を作るのも、そのような演技を抜き取るのも監督の役割だ。 私に対する期待感がみたされなくてそのような話が出ることがある。 だが‘演技は大丈夫だが作品が変だ’それは私に問題があるということだ。 もちろんそういうことはある。 2〜3月間の後半作業は俳優が参加できない時間だ。 その過程で残念なことは私だけでなくほとんどすべての俳優が経験しているだろう。

-スリラーや犯罪ジャンル選好? 現在の我が国映画シナリオの90%がスリラーだ。 これは最も多い男俳優が、大規模な男俳優がするジャンルでもある。 また、主人公の大部分の人生が数奇だ。 率直に私もロマンチックコメディをしたい。 ヒュー・グラントが出てくる正統ロマンチックコメディ話だ。 しかし我が国にはない。 大部分が俳優の個人技に依存するコメディだけだ。 いかにも強情そうな感情を絞り取る映画の話だ。 ジャンルがスリラーでもロマンチックコメディでもキャラクターが平凡でも3つともそれは意味がない。 3つがどれくらい強いか。 平凡ならばまた、どれくらい平凡か。 明らかなことはすべてのキャラクターを演じるのは難しいということだ。 そして演技はあふれてはいけないということ。 何より私が引き受けたキャラクターをどのように表現するかが重要だ。

-即興演技 即興演技をすれば自然にキム・ミョンミンの姿があらわれることになる。 一番嫌うのが劇中で俳優キム・ミョンミンの姿が見えることだ。

-呼吸 一番聞きたくない話が“このシーンは君が取って食べなければならない”だ。 どの映画を見に行ったが誰かが‘そのシーンは誰がよく取って食べましたよ’という。 何を取って食べる? どんなシーンでどんな俳優が取って食べたとのことは俳優たちの呼吸が合わないことを意味する。 新人俳優が緊張をたくさんして自身が持った技量の半分しか見せることができなかった。 それは私にもマイナスだ。 後輩が本来の技量を発揮することができるように助けるのも現場で私の役割だ。 なぜなら私たちはいつどのように終わるかも知れない戦場に共に出て行く戦友だからだ。

-次期作 キム・タクァン作家の推理小説を原作にした<朝鮮名探偵チョン・ヤゴン>(演出キム・ソギュン)を選択した。 朝鮮時代実学者チョン・ヤゴンを再解釈したのが新しかった。 他の人々はコメディというがそれは違う。 もちろんチョン・ヤゴンが失敗もしてそうするが、笑わせようとするのが目的でない。 既存の映画と違うということだ。 軽いというより明るい映画と見れば良い。 独立映画に出演? シナリオが良いならばする気持ちはある。 しかしそれは私一人だけの決定で決められることではない。 私の助けが必要ならばいつでも耳を傾けるだろう。

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