KIM MYUNG-MIN ++COSMOPOLITAN7月号++


COSMO JULY2010

Guy of the Month

EDGE OF DARKNESS



インタビューを終えたあと、ひとつお願いをされた。
“ミョンミン座”と呼ぶ部分についての話を抜くことはできないか、と言った。恥ずかしいからと。
天才ではないので、キム・ミョンミンはその何かになるためにそのすべてを諦めた。
“ミョンミン座”という修飾語までも。

逆光の影に遮られた錆びた笑みはチャン・ジュノクのようだ。
テーブルの上に手を伸ばし、コーヒーカップを持つ敏感そうな指の節はペク・ジョンウのように見える。
演技の真情を雄弁に語る冷たい低音の声はチュ・ヨンスのものだ。
キム・ミョンミンはその何かであり、何かでもない、実存しないけれどもどこにでもいる、微細なバイト(byte)のように散らばっている。
それでも関係ない。 ネットは広大だから。 



<破壊された男>観覧等級が15才じゃないよ。
まだ完全に決まってないと思うんだけど。まあいろいろ理由があるんだろう。
トレイラーだけ見ても、僕がもう、「<何とか>カッコインネ(くそ野郎、でもまだ物足りないぐらい非常に汚い言葉らしいです)」という場面も出てるんじゃない?ハハ。死体に穴をあける場面もあるし。

“意外に”10代のファンがすごく多いんだけど、興行にも影響があるんじゃない?
等級のために再編集するのかな?等級と興行収益の関連がないことはないだろう。重要なポイントだよ。でもまあ、僕がタッチできない事だし。監督が良い方向に決定してくださるんじゃないかな?

意外だと思ったんだけど、本当にキム・ミョンミンに10代のファンがこんなに多いとは知らなかった。驚いた。前回インタビューした時すごく積極的な抗議メールも貰ったってことなんだけど。ハハ
そうだね。僕もその理由はよくわからない。ちょっとびっくりした。ハハ
ファンカフェはたまに覗くんだけど掲示板を見てみると最近の10代たちはちょっと違うみたいだ。盲目的にスターを追いかけるスタイルのファン概念から抜け出したというか。以前に比べてすごく成熟した感じがする。10年前僕が無名だった時期と比べてみると、本当に最近の10代たちは見る目が高くなったようだ。以前の10代たちは俳優の演技を論ずるなんてしなかったもんね。ハハ。でも最近では「ダメな演技」だ何だと言って俳優の演技に対して議論するし。ああ本当に怖い。コメントを読んでみると「本当に俳優はしっかりしないといけないな」と思うよ。ハハ。

純真過ぎてばかみたいだった僕の10代の時と比べて最近の10代は天才じゃないかと思う。
そうだよ。本当にびっくりだ。監督でさえ気づかない細かい部分をキャッチするのを見ると、たまに鳥肌が立つ。監督、カメラがとらえることができなかったそんな細かい僕の演技の設定に気付くのを見ると、(それが)僕の中に入って出て行ったものかと思うほどだ。ハハ。それくらい作品を掘り下げて見るのが10代だから。そんな風に情熱的に作品を見て、ある瞬間やられた!と思うぐらいに鋭い場面を目撃する瞬間、その俳優にぱっと嵌ってるんだ。

ファンが現場にお菓子の差し入れもすごくしてくれるって?今回も?
本当に一回も欠かすことがないんだけど、今回はなかった。実際日程がすごくタイトたっだから。2カ月半で撮影を終えたから。そのタイトな日程を知って、ファンたちが配慮してくれたみたいだ。やはり現場に来られると少しでも撮影の遅れが生じるから。

<私の愛 私のそばに>が終わって<破壊された男>の撮影までの間がかなりあったんだけど。クランクインが遅かった理由は健康の問題のためだったの?
そうそう。<私の愛 私のそばに>の撮影がクランクアップした以降にも完全に健康が回復した状態ではなかったから。僕の健康問題のために監督が待ってくださったんだ。元々は10月にクランクインしなければならなかったんだけど。ほぼ1月末に撮影に入った。

今はどう?
今は良くなったよ。これまで山にすごく登ったから。健康はかなり回復した。病院で別に治療を受ける必要もないし。健康管理すると思って気楽に休むのが最高なんだけど。十分休んだので身体に無理がない。<私の愛 私のそばに>の時51kgまで落ちたんだけど、今は65kgぐらいになる。まだ完全に僕の体重ではないけど、それでもそれぐらいで維持している程度だよ。

インタビューしていて倒れるんじゃないかと思った。ハハ。
ハハ。心配しないで、丈夫だよ。ハハ。

さっき映画のポスターにサインするのをみて、いつ初めて(サインを)作ったのか気になった。
サイン? ん・・・カードを初めて作った時?ハハ。

いや、クレジットカードにするサインじゃなくて芸能人のサイン。
僕は初めての時は英語でサインした。なんとなくとってもカッコよくみえたから。でも、英語でサインをしたんだけどある日、名前を書いてくれと言うんだ。ハハ。ハングルで名前を書いてくれと。それでハングルでサインを探していたんだけど名前3文字を本当にきっちりと書くサインを見たんだ。すごくかっこよかったよ。自分もこんな風にしようと思ってそのようなサインをしたんだけど、それが真似しやすいものだった。ハハ。筆記体とも言えない正直に書いたサインだったから。それで変えなきゃと思ったんだけど。その時見たのが金大中 元大統領のサインだった。すごくかっこよかったよ。見た瞬間、これだと思った。飛ばすように書きながらも何となく力があるそのサインを見て今のサインを作ったんだ。

サインをひとつひとつすごく念入りに書くんだけど、正直マネージャーがする場合もあるの?ハハ。
それはほとんどない。(横にいたマネージャー、強く“そのようなことは絶対ありません!”と言う)。でも一回経験したことがある。ハハ。ある日学生が、以前してもらったサインなんだけど自分の名前を書いてもらわなかったと言って僕の名前が書いてあるサイン色紙を差し出したんだ。しばらく見たんだけど、筆記体がすごく不慣れなんだよ。僕がしたのじゃないんだ。ハハ。マネージャーがしてあげたみたいだ。不思議なことに筆記体にも顔があるように思う。真似したんだけどすぐ分かったよ。僕のじゃないってことが。何となくはっきりとは言えないけど筆記体の情緒(雰囲気)が違ってたな。

牧師が身内に2人もいる環境なんだけど、この映画は大丈夫?
なんで? この映画がどうして?ハハ。

イ・チャンドン監督の映画を例に挙げても神という存在自体を憎悪する感じがするだろう。最後まで救いに対して問いながら救いの実体に癇癪を起したりもする。イ・チャンドン監督ではなくても例は数多い。韓国映画の中で描かれたキリスト教は否定的で批判的だ。
いったん、シナリオ上で描いて演技した時、そのような感じは受けなかった。結末まで話をしたらネタバレになるから、細かく話ができないけど、神を侮辱したり否定したりする映画ではない。

ご両親は何とおっしゃったのか?
あなたが言った通り、身内に牧師が二人いらっしゃる。ハハ。父は勧士様で母は執事様だ。周りでは私が牧師役をやるということだけでも喜ばれている。僕が執事なんだよ。キム執事と呼ばれるんだけど、周りからはついにキム執事様が牧師の役をされたと、ものすごく喜ばれる。ついに祈りのお返事を頂いたと、願いが通じたと。

映画をご覧になったら驚かれるだろうな。あなたの言葉のように「クソ野郎」から「一生祈ってなさいよ。祈ったからと言って死んだ子が戻ってくると?」というセリフまで、牧師の職分に背くセリフがほぼ半分だ。ハハ。
両親にも次の作品は牧師の役だということ以外知らせていない。牧師であることはあるんだけど、どんなキャラクターなのかまったくご存じないということだ。教会にいらっしゃる他の方々もどんな映画なのかご存じない。ハハ。

教会から団体観覧でもいらしたらどうするつもり?
しょうがないよ。ハハ。でも以前もそうだったけど、作品を決める時に、信仰のために躊躇したことはないと思う。いったん僕がすることにご両親は信じてくださるという信頼もあったし。

さっき写真撮影をする時、キム・ミョンミンの劇的な没頭にめんくらった。フォトグラファーが要求する映画の中の「チュ牧師」キャラクターに瞬間的に憑依した演技を見せたんだけど(残念なことにこの写真は粗い感性のためにAカットに選択されなかった。キム・ミョンミンに申し訳ない)瞬間、撮影現場の全スタッフが一歩後ろに退いた。その力の威力に耐えるには、あまりにも内から出る力が格別だった。
ハハ。そうだった?僕は写真撮影がすごくぎこちなくなる。ましてや写真撮影してモニター確認もできない。すごく恥ずかしいので。ハハ。ただフォトグラファーの指示に合わせて演技に没頭するんだけど、うまく撮れたか心配だ。

僕が(ミョンミンの)表情のリアルな演技を引き出すために偉そうにあれこれ言った時だけでも、映画撮影でもない写真撮影なのでぎこちなくてできないと言ったじゃないか。なのに、そんなエネルギーがいったいどこに潜んでいるのか。?鳥肌が立ったよ。
分からない。まだ<破壊された男>から100%抜け出し切れていないのでそうなのかも知れない。

キャラクターに没頭したまま生きたその人生から日常生活に戻るのは楽じゃないのではないか?
毎回大変だ。意思と精神力が本当にたくさん必要だ。キャラクターに対する没頭の度合いが強いほど鬱もひどくなる。でも鬱も僕がコントロールしなければならない。鬱に追われてそこに引っ張られると、日常生活自体を耐えることができなくなる。実際<私の愛 私のそばに>撮影当時にはむしろ鬱に罹るのが役に立った。いや、鬱に罹ってこそやれると思った。ホテルと撮影現場の往復するこの閉鎖された空間の中で4カ月を耐えるためには、鬱がむしろ助けになった。わざと鬱になろうとホテルの部屋の中のカーテンを全部閉めて暗い中で過ごした。

窓の外を見たら日常の欲望が生じるかと思って?
ウン。窓の外を見れば欲求が生じるから。鬱に罹ろうとすると、きれいで明るくて、希望的なものを見たらだめだからね。希望を見る瞬間、欲望が飛び出してくるから。鬱が来てこそ、デリケートになって、デリケートになってこそ眠れなくなって、眠れなくなってこそ食欲に対する欲求が消えるようになるから。

ものすごく残酷だ。虐待レベルだね。
仕方がないだろう。そういう風にできなければ僕がこの作品を選択しない方がよかったんだし。この作品を選んだ俳優としてあまりにも当然な役目だ。

デジタル体重計の51.7kgという数字のためにそこまで残酷な方法をとるのは正しかったのかという疑問を抱いて<私の愛 私のそばに>を見て、出てきながら腹が立った。大部分の場面は病室のシーンで、顔を除いた姿がシーツで覆われていたのに、さらに冬が背景なので入院服を着なかった時も病弱になった身体全部を見せることができないのに、ということだ。本当にルーゲリック病患者のドキュメンタリーを撮影するのがいいのに、監督はどうして劇映画をやったのか、という不満があった。
ドキュメンタリーのスタイルで制作した映画だから。実際体重計にのるシーンは元々シナリオには存在しなかった部分だ。でも撮影が進行されるにつれ予想よりもさらに痩せてしまったので、そのシーンを作っておいたんだろう。誰一人20kg減量を強要した人はいなかった。監督と私と目でサインを交わしただけだった。ハハ。監督は僕がうまくやってくれれば有難いという感じだったし、すべて僕のスケジュールに合わされているところに、数字的に進行される完全なドキュメンタリーのような状況におかれた僕の立場としては、自らうまく処理してやれという雰囲気だったし。そんな状況だったにしても、誰よりも僕を大切にしてくださったのが監督だった。監督が気持ちがくじけて途中で中断したらむしろ僕の努力が報われなかったかもしれない。



今回の作品のような場合はどうなの?<私の愛 私のそばに>が肉体によってコントロールされた人間的限界を見せた映画だったとしたら<破壊された男>は精神的に極端なまでに破壊されていく人間的限界に対する挑戦かもしれない。それでも肉体的には楽だったようだ。
もっと易しくてもっと楽な作品はひとつもない。体力的限界に挑戦する映画でなくても精神的苦痛は毎作品ごとに偏りなくいつも同じだ。今回の作品もやはりそうだった。道徳的に問題を起こさない線で自分を壊す過程だった。堕落していく“チュ・ヨンス”を演技するために生活そのものを真似することはできないけど。その精神的苦痛に対する感情移入は十分に可能なことだ。愛する娘を誘拐されるという状況に直面したらチュ牧師ではなくても誰もが苦痛の日々になるだろう。堕落できるほどに。実際に娘を探す場面では眠ることすらできなかった。まるまる3日徹夜しながら演技したのだけど、ある人はこんなやり方はあまりにも無茶ではないか、と言う。メイクで表現できる憔悴感を実践するのがあまりにも愚かだと。でも僕の考えは違う。完全に疲れ果ててバイオリズムが壊れて、疲労に全身を占領された状態で演技するのと、生き生きと過ごして、撮影に入る瞬間演技するのとでは明らかに違いがある。万が一その差を見せない俳優がいたならそれは天才だろう。でも僕は天才ではない。だから最大限僕が演技する役と似たような状況で似たような感情に投与される状態で演技するしかないんだ。そうしてみると現場スタッフたちがなんでこんなにやつれて見えるのかと、昨日寝なかったのかと聞かれるたびに気分が良いんだ。ハハ。

以前のどんな作品よりも様々な感情的表現が顔に込められた。憤怒、自壊の念、諦め、卑劣さなど、一人の人物が破壊されていくほとんどすべての過剰な感情が現われるんだけど、そのような表情演技はどのように作られるのか?運転する時のように日常のいらいらする瞬間を思い浮かべたり?間違いなく鏡を見て表情演技を練習する俳優じゃないはずなんだけど。ハハ。
その通り。鏡を見て表情演技を練習するのではないよ。ハハ。その理由は僕の目で僕の表情を確認する瞬間はすでに遅すぎるからだ。その瞬間すでに嘘の演技になってしまっているんだ。それは誰よりも観客が先に分かるだろう。一番重要なのは自分だ。僕が表現しきる感情が200%正しいと確信すること。それしか方法がない。8年の間誘拐されていた娘がある日姿を現す。その設定だけを考えるんだよ。眠ることもできず24時間息をしている間ほとんどその状況だけ深く掘り下げるんだよ。どんなことを考えるか?怒りと自罪感(キリスト教で人間の自由意思を持って現実的に犯される罪。原罪と対照的に用いられる概念)、悲しみ、ほとんどすべての感情が爆発するんだよ。その8年の間自分は何をしていたのか。どうしてその状況を放置することができたのか。どうして簡単に諦めてしまったのだろうか。狂ったような感情的変移があふれてくるんだよ。僕が経験した状況を思い浮かべるのは、いくらなんでも役に立たない。なぜならそれはキム・ミョンミンが経験したことでしかないから。僕の経験から類推して演技したら、それはキム・ミョンミンの怒りになり、キム・ミョンミンの笑いになるんだ。本当に難しいけど最大限チュ・ヨンスの状況で考えて理解しなければならない。

百種類の異なるキャラクターも結局はキム・ミョンミンの中から出てくるんだ
ろう?
もちろん。そのすべてはキャラクターが僕の口を通して話し、僕の体を通して動いて、結局僕の中にあるんだよ。

キム・ミョンミンがちょっと怖くなってきた。そのように残酷に破壊されていくチュ・ヨンスという人物もキム・ミョンミンの中にいると思うと。
うん・・・僕の中にだけそんな残酷さと破壊の情緒が隠れているのではないよ。あなたの中にもあるんだ。それは。

信じたくないんだけど?ハハ。
ハハ。信じたくないだろうけど、みんな人間の中に隠れている感情だよ。日常からそのような極端な感情が現われるほどの事を経験していないし、普段の生活でその実態を確認できないだけだろう。あるいは、教育のために感情表現をコントロールする訓練を受けて、隠れているのかもしれないし、チュ・ヨンスのように子供を誘拐される瞬間がくれば、信じていた誰でも、神さえ捨てる破壊の過程を経験するようになるよ。

<復讐するは我にあり>の最初のテーマも“破壊された男”だったし、まじめに生きてきた平凡な一人の父が子供を誘拐されて以降、潜在していた残酷な欲望を現して破壊の過程を経験していく内容も、パク・チャノク監督の映画を思い浮かべる。
作品を選択する時、そのような類似性に対しては考えてもみない。誘拐された子供、その中から噴き出してくる父性に関する内容は<復讐するは我にあり>
以外にも多いだろう。<あいつの声>もそうだし、<容赦はしない>もそうだし。

その映画と何が違うの?キム・ミョンミンが演じているということではないし。ハハ
見たらわかると言うのはあまりにもつれない答えかな?ハハ。

うん、ハハ。
ネタバレになるいから詳しい部分は話せないけど、観客が感じる、違う面白さが明らかにあるということだ。

<白い巨塔>で“ミョンミン座”というニックネームをもらう前にも<鳥肌>の“ヨンヒョン”のようなキャラクターは相当注目された。でもフィルモグラフィの中に唯一キム・ミョンミンの演技に対して軽はずみに言及しなかった映画は<鏡の中へ>と<無防備都市>だった。
それはたぶん、僕が演技をうまくやれなかったということだ。それが正解だと思う。

ジャンル映画に弱いんじゃないか?何と言ってもジャンル映画でキャラクターはドラマが縮小されて単純になってしまう傾向があるから。
その映画が特に注目をされなかった理由はいくつかあるだろう。僕が演技をうまくやれなかったこともあるし、また最初のシナリオのまま映画が完成されなかったという理由もあるだろう。でもジャンル映画の演技というのが別にあるとは思わない。映画にはジャンルがあるが、演技にはジャンルがないんだ。演技にどんなジャンルがあるっていうの?ホラー演技?コメディ演技?どんなにジャンルで分類しようとしても映画は基本的に人間の喜怒哀楽を込めているということは変わらない。よく演技を定義しようとして犯す過ちの中のひとつがコメディをオーバーアクション、オーバーな演技と考えることだ。でもどんな時にも演技はオーバーにやったらだめなんだよ。どんなジャンルの映画であれ、そのキャラクターに同化された真の姿を見せること、それしかない。演技に正道というのはないが、観客の心を動かすのは真実の心だと思う。まったく言葉が通じないヨーロッパのある国の映画を見ても俳優の演技から真実の心が感じられないか?世代と言語を超越して通じる感情、それが真実の心「チンシム」であり真情だよ。

ジャンルに対する演技が別にあるのではないのなら、キャラクターの狂気が極端になるほどキム・ミョンミンの演技が光るという評価に対してはどう思うの?チャン・ジュニョクやカンマエ、ましてや李舜臣も狂人だった。李舜臣は衷情と責任感に対する純潔性に関して、恐れ多くて近づけない狂気を持った人物だろう。
そうだなあ。正直僕はそんな評価についてはよくわからない。ある人はそのすべての狂気漂うキャラクターから弱さを発見する。人間の弱さを見せるキャラクターだと評価する。その多くの評価、その中で何が正解なのか僕はわからない。ただ僕が確実に言えることは僕が感興を感じるキャラクターを選択するということだ。弱い人間、だから自分の感情を、狂気を漂わせて現わすしかないそんな弱い人間に引きつけられるんだ。そんなドラマにそんな話に僕は感興が湧く。僕が感興できないキャラクターは選択できない。なぜなら自分と観客を説得できないから。

疑問を感じることはないの?
正直毎瞬間そう思うよ。撮影に入る直前までひたすら悩むし疑問を感じるよ。僕がしているこの演技は合っているのか。この方向が正しいのか。毎回悩む。食事をして、顔を洗って、眠りにつく瞬間までも悩む。だから努力するんだ。疑いの範囲を狭くするために。体重を減らし、徹夜して、スタッフたちとひたすら調整しながら、現場の空気に少しのぎこちなさもなくすために。そのように満たしていくけれど、「スタート!」の声とともにカメラが回り始めたら100%、いや200%の確信で演技する。いささかの疑いもなく。なぜなら僕が自分自身の演技を信じられなかったらすぐに(観客に)バレてしまうからね。

そんな瞬間も来るの?観客にバレてしまう?
そんな瞬間。あ〜、考えただけでも厭だ。たぶん自分が耐えられない。

そんな瞬間が来たら誰より先に見破れる力を持っていると思うの?
僕があまりにもそういった瞬間が嫌いだから、たぶん誰よりも先に敏感に反応するようになるのは自分自身だろう。それぞれ違う過去を持ち、それぞれ違う人生を生きてきた数十のキャラクター、そのキャラクターを演技するのがキム・ミョンミンだという事実を最大限隠したい。最大限騙せるまで、最大限そのキャラクターであるふりをし、まるで自分の周りのどこかにいるような誰かさんとしてそのように演じたい。そんな風に生きたい。正直言えば、それだから本当にキャラクターについて研究をすごくするんだ。他人と比較したくはないが、本当に誰よりもすごく努力したと自信を持てるぐらいにキャラクターだけを考えて研究する。僕が心理学関連の本をたくさん読む理由もそこにある。少しでも人間の内面に対して理解するために。キム・ミョンミンとしてではない、ただキャラクターが生きて動いているというような生命力を持つようになりたいから。ある瞬間、時間が過ぎて見ると何かキャラクターが重なる感じもするし、以前ある作品で見たのと同じような演技、という評価を受けることもあるだろうしその瞬間が来るのを最大限引き延ばすために努力するんだ。どんな演技をしても以前したのと似ているという評価を受ける時がどんな時だかわかる?まさに怒る演技と笑う演技をしている時だ。最も原始的人間の感情のために、どんなに演技で隠そうとしてもうまく隠すことができない。そんな瞬間には映画の中のキャラクターではなく本人が出てくるようになるんだよ。でも僕はそれさえ隠そうと努力する。笑いと怒りという原始的感情演技かららもキム・ミョンミンが飛び出すことがないように。“カンマエ”が笑えばそのようだし“ジョンウ”が笑えばそのように違うものだという確信を持つまでキャラクターだけ考えて深堀する。毎作品ごとに夢さえ違う夢を見る。今回の映画では毎回追われる夢をすごく見た。追われているのか、何かを追いかけているのかわからない、どこかで息が詰まるように走るそんな夢をすごく見た。<私の愛 私のそばに>をした時は死ぬ夢も見た。撮影現場で撮影していて、目覚めて起きるんだけど、身体が動かないんだ。スタッフたちをどんなに呼んでも僕の声が聞こえないようなんだ。僕を見ても気づかず、夢の中で幽体離脱を経験したんだ。そんなにまで努力しているのに、ある瞬間(観客に)バレる?僕が最初に分かることだよ。僕が最初に耐えられなくて腹が立つから。少なくともそのような信頼が自分にはある。

人間キム・ミョンミンはいないようだ。
僕と一緒に住んでいないからわからないんだろう。ハハ

どうなの?
面白くない。たまに旅行にいくことを除けば特別趣味もないし。ハハ

マゾヒストだ!
ん?ハハ。本当につらそうだから?我々は創造という言葉を凄く簡単に使うけれど、何かを創造するということ、それを仕事にしなければならないということは本当に苦しいことだ。身を削るような苦痛という表現が慣用句になってしまったけど。その言葉のまま痛みを感じるほど辛い。もちろん僕もたまには怠けてみたい。ああ、一日休みたい、ただすべてを忘れて眠ることができたら、そんな思いもする。でもそのような不快な感情も楽しむ。ハハ。誰かは冒険せずにただキム・ミョンミンらしいキャラクターを探してキム・ミョンミンが得意なものを選択しろとも言う。そんな創造の苦痛の中で得る喜びを経験したことがない人たちの話だ。単純にお金を稼ぐことができる以外に何も得ることができなかったら、この仕事をやる理由がないだろう。

あまりにも多くの犠牲を払っているのではないか?
それが僕の生きていく目標であり理由だから。僕が愛する仕事だから。
犠牲は喜びだよ。
愛は、もともと犠牲*なんだし。



*注釈:韓国人の考える犠牲(ヒセン)とは。
日本人の使う「犠牲」とはかなりニュアンスが異なるようです。自分のことよりも相手を思う気持ち、配慮のようなことも含むそうです。したがって何かを相手にしてあげたために自分が傷を受けたり、そのために自分を捨てるようなことではなく、自分自身にも自己満足が残るプラスのニュアンスがあります。



翻訳:SAMTAさん 2010.7.17   
〜Special Thanks〜

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