KIM MYUNG-MIN  ++女性中央2009年12月++

釜山ホームオフィス オープンパーティ
キム・ミョンミンとFriends
2009年12月





終始一貫俳優パワーを失わない、ともすれば自分の生き方も厳しく採点しながら生きるような
この男もスタッフ達とは気兼ねない。同苦同楽のスタッフたちと一緒に使うつもりで準備した
釜山水営湾(スヨン湾)のホームオフィス。ごく親しいメンバーが皆集まった日、普段着の時も
魅力的なキム・ミョンミンを見た。


俳優たちにとって釜山が慣れた都市であることは釜山国際映画祭と水営湾の映画撮影所のためだ。キム・ミョンミンが彼とスタッフ達のためにオフィスをここ釜山に作ったことも純粋に撮影用宿泊施設のためだった。以前何本かの映画を立て続けに釜山で撮ってきた彼は、撮影期間であれば「ホテル長期滞在客」にならなければならない状況がかなり気に入らなかった。何日かいれば十分なホテル生活を何カ月ずつずっとすることも不便だったし、キム・ミョンミンという俳優一人について共に苦労するスタッフたちのためにも“家”というコンセプトの宿所が必要だと考えた。そのような折、用意したのがここ水営湾、映画撮影所がまさに横に位置するホームオフィスだ。少し前に所属事務所を出て独立することになった彼は無名の時から12年間“マネージャーと俳優”というタイトルで、実際はそのようなタイトル以上の密着した関係で結ばれたキム・ユシクさんとともに新しい巣を作った。その最初の出発として、ここに“家の雰囲気”のあるオフィスを用意したのだ。
12年間の因縁ほどではないが、やはりキム・ミョンミンのスケジュール通り快く動いてくれて、今はもうお互い目を合わせただけで“ぴったり”とわかる間柄になったヘアー、メイキャップとスタイリストまで、彼らは釜山で撮影がある時ならここで一緒に生活をするようになる。ホームオフィスが完成した初日、キム・ミョンミンと彼のスタッフたち、そしてインテリアスタイリングを担当したデザイナー、チョ・ヒソンさんは広安大橋がすぐ見渡せる家でカジュアルなカクテルパーティを開いた。

 12年来の付き合いであるキム・ユシク代表と。



良い師匠、先輩、コメント・・・俳優に大事なのはむしろマネージャーだ。キム・ミョンミンは“自身の俳優の身のほど、位置を正確に教えてくれるマネージャーが良いマネージャー”だと断固として言う。シャンパンを一緒に飲んでいる、今彼のそばにいるキム・ユシクさんがまさにそのような人だ。このマネージャーは文句なしに見える名俳優にどんな「身のほど、位置」を教えてくれたのか。
“ミョンミンのネームバリューのせいで新しい作品に投資がうまく集まらないという。もうそんな話も全部してくれます。ドラマ不滅の李舜臣で演技大賞を取った後でもこのような話をたくさん聞きました。私にスター性が足りなくて投資が受けられないという話は、本当に苦々しいですがマネージャーにはそのような話が必要じゃないですか。”
鋭い直観力に“カンマエらしく”フィルターをかけないでポイントを指摘する人。
そのようなマネージャーを意味するのではない。彼は歳月で深まった、今は気兼ねなど必要なくなった関係について話したかったのだろう。
“客観的な業務処理能力や理性的な判断? 演技者とマネージャーの間ではそのような能力よりもお互いに対する信頼と好感が重要です。お互いに「信じてるよな?」そのような言葉が必要ではない関係ということです。”
なんとなくキム・ミョンミンに似合わない話のようだ。縁や関係に執着するのはアマチュアだからだ。自らアップグレードするため周りのスタッフを変えることがスターの間では頻繁なのに。彼の考えは違う。俳優もスタッフも一緒に勉強しながらお互い向上して生き残って行くのだと。
かなり古く、今はもう確固たるものになった自分のスタッフを“自分の足りない部分を埋めてくれる人たち”と明言する。
“私のような人間が外でも足りないものが多いのに、中で足りなかったらだめじゃないですか。お互いについて好感をなくし距離感があるとその小さなストレスが仕事に没頭できないように妨害します。スタッフが良くてこそ、同じご飯を食べても楽しいし、撮影しながら積もったストレスを解消できるのもスタッフたちと一緒にいる瞬間です。
それは友達も誰もできない部分です。この仕事の細かい部分を知らないですから。”






写真撮影をした日は映画「私の愛 私のそばに」の上映真っ最中だった。彼は前もって体力を回復できなかった身体で、最小限の広報日程を終えた直後だったし、殺人的な減量に対する記事、10回もの死にそうになった峠を乗り越えたというニュースがスキャンダルのように日々エスカレートした。彼の痛々しい“死にそうな峠”は皮肉にも興味を引く広報の話題になった。人々は誰もがキム・ミョンミンのメソッド演技と痩せた身体について話をした。李舜臣やチャン・ジュニョク、カンマエの時も細かい筋肉の動きでさえも驚嘆する彼の演技を大切に見守ってきた編集者はこの映画で初めて、キム・ミョンミンの突進が恐ろしくなった。正確にいえば彼の身体の状態に(映画に)集中できなかった。“なぜそこまで”という心が痛む疑問が没頭を邪魔した。このような疑問を引き出すと、彼はまじめに演技者としての使命について語った。私生活のややこしい浮き沈みを離れ、俳優、演技する人それ自体の人生がどれだけ苦痛だらけであるか、彼の言葉を聞きながらそう思った。
キム・ミョンミン式 断固たる演技論だ。
“指揮者の役なら指揮者のように見えなければならないのが答えであるようにキャラクターの本質に接近することは基本です。私自身をいったん本質に近づけてこそその後の行動に説得力があるでしょう。私にとっては仕事は創造の努力であり新しい挑戦です。復習ではなく挑戦なので苦しくてもやりがいがあるということです。人々の賞賛?そのようなものは感謝、エネルギーそれ以上ではありません。重要ではないです。重要なのは私の判断でしょう。今回の映画での私の演技力、それも私の判断では不足でした。演技力はいつもも満足できないです。(そのような苦痛に)何を得たのかですって?私も自信がなかった(減量という)挑戦に勝ったことです。食べなければ死ぬかもしれないという時、精神的に”これはもうぎりぎりかもしれない“と思ってぼーっとすることが10回ぐらいあったんですが、そこで食べたら負けなんですよ。この苦しさを超えて私がルーゲリック患者の本質に接近してこその次の演技にも観客が共感をするのですから”
精神までぼーっとして危険だと思い、途中で止めようと思った時、今までやってきたのがもったいなくて“あと少し、あと少し”を繰り返して限界まで至ったのが映画の中のキム・ミョンミンの最後の姿だった。コンピューターグラフィックで処理できる部分をなぜそこまでするのか、編集者のように疑問を持った人達が彼の周りにも多かったが、“スクリーンを抜け出すパワー”は俳優だけができることだと彼は信じているということだ。




撮影を終えた後、海雲台(ヘウンデ)の刺身屋で座を囲んだ。まだ身体が回復していないキム・ミョンミンはお酒をまったく飲まなかったが、お酒の代わりに水を飲みながらも冗談をかなり飛ばしていた。考えてみると、映画の広報をしながらバラエティに出演した彼を見たことがない。
“広報のために無理にやりたくないと断りました。あそこ(バラエティ)に行って話すこともないですし、すごく小さいことも俳優は映画や作品で見せなければならないと思うんです。俳優を止めることがあってもバラエティを生業にしたくはありません。”
キム・ミョンミンはプライバシーの話題が目立たない演技者だ。演技に没頭する俳優のキム・ミョンミンのイメージではなく、私的なキム・ミョンミンが気になったが、そのような質問には“私のような者の話が何が面白いのか”と乗ってこない。あれこれ言葉を回しているうちに“最近感動を受けたことは”と聞いた時、彼の答えは“日常のキム・ミョンミン”について書きたかった記者の努力をただ諦めさせた。
“ハニャン大学の病院でルーゲリック患者に会った時です。そのような状況でも自分たちが幸せな理由をひとつひとつ読み上げる時、すごく感動しました。あの方々が望むのはルーゲリック病に対する間違った認識を変えて欲しいということだったんです。私が生半可にできなかった部分でもありますしね。”
キム・ミョンミンはこのように作られた人だ。夕方になれば明日やることをメモして次の日の夕方にひとつずつ消していくのだそうだ。彼が手帳に書いておく内容はとても小さい目標だ。見る映画、しなければならないこと、会う人、その上に起床“目標”時間も。自己満足であり面倒くささを克服するための自己流のやり方だ。“主人公の横に立っているのが似合う”目立たない外見のせいで演技者として選ばれた彼が名前もないエキストラだった時、道の“通行人1”にもどれだけ没頭したのかわかるような気がする。初めての主演だった映画「鳥肌」でタクシー運転手役のために実際にタクシーの運転を何カ月間がしたエピソードもキム・ミョンミンだから納得できる話だし、、“ミョンミン本座”という賞賛のニックネームも彼にはふさわしい。彼の底力で独歩的な位置に上がったので究極の願いという“名誉たる人間”になることは難しくないように見える。ただ簡単に妥協できない人特有の疲労が彼の生き方に浸み込んでいるに違いない。

翻訳 SAMTAさん

homeへ

inserted by FC2 system