KIM MYUNG-MIN  ++VOGUE2009年10月++


死んでこそ生きる男




他人の苦痛をスペクタクルに消費する、いわば「災難の想像力」でエンターテインの野望を達成しようとする(他人を踏み台にして、自分の喜びを達成しようとする)現代人たちに向かい、キム・ミョンミンは低くつぶやいた。一番前で突撃する戦場の太鼓の音のように、細くなったのどから共鳴する彼の重厚な声で。「人間は尊い存在です。私はずっとそれを言いたかったんです。」
<白い巨塔>以降、何年かぶりに会うキム・ミョンミンはとても痩せ衰えて、何カ月間か味わった彼の肉体の苦痛が空気の振動を通して伝わってきた。
枯れた木の禁欲的な悲しみ、動くことも悲鳴をあげることもできなかったその木から、言葉で表現できなかった生の葛藤を発見するようになる。そのように206個の骨でできたキム・ミョンミンの骨格、筋肉と血管と脂肪組織を覆ったザラザラした皮膚は完全に解体され壊れ、徐々に目覚めて再生される途中だった。
「筋力も弱くなったんですが、臓器が一度働かなくなって再び蘇生しようとすると時間がかかるように、私の身体もそうです。人の身体というのはバッテリーを替えるように再び取り替えても以前と同じようにはならなかったんですよ。」
紫色の薄い唇、その下の艷を失った首と鎖骨が目立つ胸元が見えた。グラディエイターのように装飾された筋肉がもてはやされる時代に“他人の罪”を背負って十字架にかかったイエスのように関節がむき出したままでも、鋭い目は黒目と白目が澄んで強烈だった。
李舜臣も死に、チャン・ジュニョクも死んだが(“ベートーベン・ウィルス”保菌者だったカンマエもその前はキム・ミョンミンという実体の死で完成されたキャラクター)、ルーゲリック患者に扮した今回の映画<私の愛私のそばに>はただ死と言う唯一無二の目標に向かって走って行った映画だった。ドキュメンタリーなのか、映画なのか、生と死の境界である“中間界”を経たミョンミンは未だに(彼自身どこにいるのか)よくわからなかった。





「映画が終わらないことを願いました・・・この感情をどのように説明したらいいのか・・・誰にも言ったことがないんですが、ひとりぼっちにされたような気がしたんですよ」今にでも呼吸が止まってしまうような切迫した声。その男はここにいなかったし、52kgのやせ細ったあばら骨にいつの間にか肉がついてきたものの、キム・ミョンミンのまぶたは死の瞬間を記憶してピクピクと痙攣を起こした。そのまぶたはルーゲリック病患者が到達しなければならない結末、深い暗闇と冷気がただよう深淵を盗み見たようだった。「私が今まで未来の状況を知らず極限まで走ってきたんですが、その理由はただ撮影現場に出ていくためだったんです。でもいざ撮影現場がなくなると思うと私がこの身体の状態で何をしなければならないのか、家に戻ったらどんなことが待っているのか・・・、すべてが不安だったんです。それでパク・チンピョ監督にクランクアップを伸ばしてくれと訴えました。病院のベッドに横たわりカメラの前に立って死に向かう時は生きているようだったんですが、撮影が終わってホテルに戻りベッドに横たわると死体のようになってしまったので」
死んでこそ生きる男、キム・ミョンミン。


俳優として純粋な精神だったのが、再び普通の人という実体に戻ることはどれだけ難しいことか。カメラレンズのシャッターがおりた後、断崖絶壁の下でバラバラになったマリオネットのように散らばった気分、ミョンミンの顔にはひどい恐怖の顔色が滲んだ。

「一番辛いのは今日よりも明日もっと痩せなければならないこと。シナリオを読んで今日よりもっと悪化しているジョンウの身体だと書いてあって、逃げることができませんでした。」実に恐ろしいシステムだ。終末に向かって人を追いこんでいく。パク・チンピョ監督のカメラはドキュメンタリーの時間の順序にそのまま従って行ったし、それは毎日朝が怖い“死刑囚”と同行することと同じだった。「最後には骨だけのやせ細ったままで死んでいくんですが、この終わりがどこまでなのか分かりませんでした。私が死んでやっと終わりになるという思いしかなかったです。」死んでこそ終わりが来るなら、その悲劇を知りながらなぜこの映画を始めたのか?彼は実際毎回カメラの前で死んだ。自分が死んだ後でこそ他の人物に入ることができるというのは彼には自然な演技の答えだった。「メソッド演技やロシアのスタニスラフスキー(←クリック)を論じながら最近私にかなり注目してくださいますが、私はすごく変に思うんです。それは大学に入れば習う演技概論、ハングルの基礎正書法と同じなんですが・・・あまるにも当然なことをものすごいことのようにおっしゃるので・・・むしろ恥ずかしいです。」

キム・ミョンミンは“死んでこそ生きる”という言葉の底に潜んだ単純で巨大な哲学を理解しているように見えた。他人を完全に受け入れることは自分を殺すことだ。なのに演技という行為は‘自己死亡’という積極的な行為を通して新たな‘誕生と復活’にたどり着く道。

「今回は完全に死ななければなりませんでした。演技できる材料としての身体まですべて捧げなければならない状況でそれを拒否しようともがきました。<ベートーベン・ウィルス>の打ち上げの時シナリオをもらったんですが、逃げようとして“私がこれをやって死んでもいいのか?”とあがいたんですよ。」

その間たくさんの悪夢を見た。ルーゲリック研究のため病院にいたのだが、突然手足が縮んで、その場で医師の死刑宣告を受けた。9時のニュースでアンカーマンはキム・ミョンミンがルーゲリック患者を演じて実際に死亡したという非情なコメントをした。しかし自分の意思で拒否できない世界があるということを認めなければならなかった。
死に近づく80歳の老人たちの愛と性をきれいに描いた<死んでもいい>、エイズ患者と農村の独身男の愛を扱う<あなたは私の運命>、そして死んでいくルーゲリック病患者のラブストーリー<私の愛私のそばに>はドキュメンタリーと映画を混ぜたパク・チンピョ監督の“愛の奇跡”3部作の完結版とも言えるようだ。


「でも(映画出演を)決めて見るとさらに目の前が真っ暗になりました。病気を研究して患者さんたちと会ったので絶望感はさらに深くなりました。準備というのは痩せて麻痺させることなのに、体重を落としながら感じるようになる私の皮膚の感覚というようなものが分からないのでただ生放送のようにやるしかなかったんです。

始まれば戻ることができない生放送・・・・私は彼の考えに同感した。キム・ミョンミンはまるで店を閉めるためにシャッターを下ろした店の主人のように目を閉じた。静けさが辺りを囲んでいるようだったが、急にどこからか低いうめき声が聞こえてくるようだった。ミョンミンの脇腹が燃えて身体が後ろを向いて煙が立つような幻覚が起きた。彼のまぶたがまた開いた。


「私が本当に辛くなってこそ、見る人も辛くなるんですよ。私が転んだのに、痛くなくてけがもしなかったら人々の心もただ同じく無傷なんです。」

私はこのインタビューがまるで<病院24時>や<ドクターズ>のようなドキュメンタリーになっているような感じを受けた。手術台の上の身体のように臓器の上から神出鬼没な天才外科医師の手が、“トントンオリ(糞のかたまり)”という爆弾を投下してオーケストラを好きなように指揮した名指揮者の手が完璧に縛り付けられたまま、ただベッドの上に横たわったり瞳で反応するしかない状態に悪化したためだ。私は以前TVで、植物人間で何年もベッドに横たわっている一人の若者のドキュメンタリーを見たことがある。その青年は開いた瞳孔だけで辛い肉体の苦痛を訴え、母親の子守唄に安心し、朝に咲いたスミレに感動した。私はつばを何回も飲みこんでのどを少し潤した後、言葉を掛けた。一体これは何を見せようとする映画なのか?疾病映画なのか?ラブストーリーなのか?

「愛する人を見送る者と旅立つ者のヒューマンドラマです。私の横にいる誰かがどれだけ大切かを感じるようにしてくれる。私は映画の本質が壊れないようにルーゲリック病患者を身体で見せようというのが目標だったし、私のやるべきことでした。」なぜ死んでいくのがわかっていてプロポーズしたんですか?「誰でもそのように死んで行くということは分かっていますが、また誰にでも生きようとする希望が最後まで残っているんですよ。だから病気にかかったけれどずうずうしくプロポーズできることも、愛・・・愛が人を最後まで生きたいとさせるのだし。」何とプロポーズしたんですか?「僕のそばにいてくれる?・・・」キム・ミョンミンはお腹の中で湿った砂がこすれ合うような重たくて鈍い声でキム・ヒョンシクの歌“私の愛私のそばに”を歌った。私たちはしばし彼が始めて主演した映画<鳥肌>の相手役チャン・ジニョンについて話をした。死を分かっていてもプロポーズをし、それを受け、結婚式を挙げた涙ぐましい愛と離別と約束の意味について。そして残された者の悲しみについて。

「撮影が終わって家族と会った時、奥さんがすごく驚いたと思うんですけど。」「ええ、でも、まあ、いつもそうでしょう。」ミョンミンは向き合いたくない事実を表に出されたかのように躊躇した。私はふとこの男はいったいどこにいるのか、という思いが浮かんだ。時には彼の妻もそのように思うだろう。死の砂漠を渡り、こん睡の氷山の上をさまよって、苦痛のジャングルを横切りながらも、彼の魂の中で彼が見たものの証拠を探そうとする時、何も見せようとしない男。ただ1日3食、雀の涙のような少ない分量のおかゆとご飯で回復していることを何でもないかのように天真爛漫に明かしながら。



MBCドキュメンタリー<彼(キム・ミョンミン)はそこにいなかった>は、キム・ミョンミンがそのように変わっていく過程をカメラに収めた。「そのドキュメンタリーがなぜそんなに人気がるのかわかりません。撮影初盤にドキュメンタリーとして残したいという提案があったのですが、実際私は撮影チームの要求をちゃんと聞いてあげたことがないんです。家族と友人に会う姿だとか、そのような演出をひとつもできませんでしたので。創り出す絵もない私のような味気ない人間を撮ろうとするので、毎日「撮るものがなくて心配」だということをおっしゃいましたが、それでも私は自分が最後まで何かを必死にまじめにやれば通じるということを信じていました。」

私は彼に依然として巨大なスケールのヒューマンドラマであり人間を救ったドラマである<シンドラーのリスト>や<ミッション>のような映画を好きかと聞いた。「ええ、他人の人生を代行して生きながら良いメッセージを伝えること、それが私の夢です。<ベートーベン・ウィルス>を見ても、カンマエが傍若無人の指揮者として終わることができたのに、その自由奔放な人が夢をあきらめたまま生きて来た母や父たち、絶望した若者たちに勇気を与えたじゃないですか。それがどれだけすばらしいことか。作家の意図がそうだとしたら、私はそれを表現するために、助詞ひとつ違わずに、完全無欠な道具にならなければなりません。」

私たちはしばし、彼が演技を止めようとした時代について話をした。どん底に落ちた時、一番高く上がることができるという論理のようにどんなに努力しても演技者の道が見えないのでニュージーランドに移民しようとした瞬間、奇跡のように出会った<不滅の李舜臣>。

「家も事業もすべてを準備しておいて、後は飛行機に乗るだけという時でした。そのように離れる10日前にチャンスが来ました。太平洋を渡る飛行機に乗る代わりに、(李舜臣として)南海(ナメ)の船に乗ったということでしょう。」


『晋州城で朝鮮兵士5千人が死んだ。犬一匹、鶏一羽生き残っていなかった。私は一人夜を明かして座っていた。』静かに喀血する李舜臣の文章のように、2004年キム・ミョンミンの腹式呼吸のセリフの時代がやってきた。いかにも、生きようとする者は死に、死のうとする者は生きるのだと言ったように。死んでこそ生きる男、キム・ミョンミンの時代が開かれたのだ。彼を通じてドラマは古典の海を航海するように広く勇壮になったし、映画はドキュメンタリーになるというアイロニーな瞬間。私は最後に彼に聞いた。「何をする時一番幸福ですか?」「(演技の)準備をしていて苦痛を受けること。結局私はそれを楽しんでいるように思います。」カメラマンと私が彼の肉体を閉じ込めた棺を解体すると、白い服を着たキム・ミョンミンの身体は昇天するイエスのように重力の支配を受けず、高く高く跳ね上がった。

エディター:キム・ジス

翻訳:SAMTAさん  2010.10.17

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