キムミョンミンウィルス  thesingle

艶がなくて性格が悪くて傲慢な毒舌家カンマエ。
強くて弱い男、おとなで、同時に子供のような男、殺したいように憎いが愛さないわけにはいかないこの男、現実世界に存在しそうでいない男カンマエをキム・ミョンミンでない誰ができたのだろうか。
だが、わかるだろうか。
キム・ミョンミン、、、彼はカンマエより百倍は興味深くて、強くて、丈夫な男だ。



キム・ミョンミンは革ジャケットとペルルティカバンに靴までそろえて空港に現れた。
長期間飛行のために帽子をゆったり被って気楽にジャージを着てきた通常のスターとは全く違う姿だった。 彼は記者と初対面だという点を意識したのだ。

ニース空港におりた後、彼が話しかけた。 “私たち以前に会ったことがありましたか?”
声優のように低く鳴らす彼の声を聞くや、嬉しくて心にフフッと笑いが出た。 カンマエの声と語り口であったから。
<白い巨塔>のチャン・ジュンヒョクを演じる時はチャン・ジュンヒョクと全く同じで驚いたのに、今は完全なカンマエスタイルだ。
少しずつトンが変奏されたがそれは皆キム・ミョンミンの案から出たのだ。
切らなかったヘアースタイルも、動揺することがない目つきも、口元にぴくっとこれは微笑も今まではカンマエだ。
もしかしたらキム・ミョンミンがカンマエから抜け出すことができないのではなく私たちがカンマエから抜け出すことができないのかも知れない。

ドラマ<ベートーベン ウイルス>は新しい廃人を誕生させた。クラシックを素材にしたのが興味深かったがペバドラマ全体に魂を与えたカンマエ役を担ったキム・ミョンミンの世界だ。
人々はドラマを見てカンマエという見慣れなくて興味深い怪物に中毒し始めた。ベートーベン ウイルスでないカンマエウイルスはかなり致命的だった。

“君たちは私の楽器だ。私はオーケストラという楽器を演奏するのであって君たちはその付属品だ。”
“おばさんのような人を世の中で何と呼ぶと思いますか? 救済不能、迷惑、障害物、多くの呼び名があるがその中でもこのように呼びたいです。 便塊り。”
こういう毒舌を時をわきまえず吐きだして、思いやりもなくて、実力ない人は足の爪の時ぐらいも感じない傲慢なマエストロ。
カンマエは通常のドラマでよく見た悪い男の魅力を見せることもなく、はなはだしきはハンサムなでもなく若くもなかった。
角張った性格に艶がなくてクールでもなく時々は滑稽なうえに憎らしくて幼稚なことさえした。 典型的ないじめの姿だ。
しかし彼にはおかしな中毒性があった。殺したいほど憎くてそばにいたくないが彼の毒舌が度々耳元にぐるぐる回って、‘今後を見て、私がこれ見よがしに成功してしまうのだ’という復讐心を持たされると、いつのまにかこの悪い男を愛することになったのだ。 マゾヒストでもないが前にだけ立っても心臓が縮むようだし人々を皆バカにするおかしな男をなぜ人々はこのように愛したのか。

カンマエはパワフルな実力者だ。だが同時に憐憫を呼び起こす。自尊心を除けば四十才男に隠れている弱い肌、寂しい傷と劣等感は女たちの母性愛を触った。
‘便塊り、痴呆、バカ、難聴。人を傷つける話を何気なくティクティク吐きだしたが彼は、便塊り、痴呆、難聴の後始末をする。
彼は醜い奴にモチもう一つ与えたいママでなく、醜い奴は崖で落としてさらに強く育てようとするパパの姿に近かった。 独善的だが寂しいパパの後ろ姿に似たカンマエはかわいそうだった。

強くて弱い男、おとなで同時に子供のような男、殺したいように憎いが愛さないわけにはいかないこの男、作家の頭の中で創造された独特のキャラクターに熱い心臓と微細な感情とよどみなく毒舌を吐きだす特有の語り口、人をにらむきらりと光る目つき、滑稽で巧妙な微笑などディテールある要素を添加したことはキム・ミョンミンという俳優。
彼が息を吹き込んで漫画の中に存在しそうなカンマエというキャラクターは私たちの目の前で生きて息をする生命体になった。

<不滅のイ・スンシン>のイ・スンシン、<白い巨塔>の医師チャン・ジュンヒョク、<ベートーベン ウイルス>のマエストロ カンマエ。
キム・ミョンミンが演じた彼らは、誰かの夫、パパ、恋人でない、ものさびしくひとりの人間として存在した。
ハンサムでもない30代半ばの俳優が成し遂げられた成果は10年余りという歳月をじわじわ積み重ねた内面空白により可能だっただろう。
演技に臨む誠実な姿勢はすでに広く知られたところ。 だがキム・ミョンミンという俳優が鎧のようにまとっている丈夫な外皮の中に隠された内心が気になった。
現場では感情をのがすまいとご飯もあまり食べないで台本を手放さないという彼の、完ぺき主義者的な姿でなく洋服を解いて破って、うとうとしたり冗談も言ってリラックスした彼の姿が気になった。それでキム・ミョンミンに一週間のプロバンス旅行を提案した。



<ベートーベン ウイルス>とカンマエについて話す

<ベートーベン ウイルス>(以下ペバ)がこのように成功することを予想をしたか。
視聴率がこのように高いとは予想できなかった。 だが良いドラマになることでウェル メード ドラマになることは予想していました。

視聴率はなぜ予想できなかったか。
視聴率を予想してドラマをしない。それは俳優が滅びる近道だ。
興行だけ追求すれば三流どうし集まることになるし、クォリティーを追求するならハイ クォリティーの人々が集まることになる。
私が作品を選ぶ時、常に基準にするのはクォリティーだ。興行とクォリティーははっきりと違う問題だ。
興行を追求するならクォリティーが満たされない、私はこのドラマが視聴率が5〜10%でもし人々に刻印されるドラマになれば良いと考えました。

クラシックを素材にしたドラマなので最初は韓国版<のだめカンタービレ>という言葉もあった。
<のだめカンタービレ>はおもしろく見ました。でもこのふたつは全く違うドラマだ。率直に<白い巨塔>をする時は原作を意識しないわけにはいかなかったです。日本のカラサワの演技が度々浮び上がって演じる時大変だった。日本の小説が原作だし、日本ですでに作られたドラマのキャラクターとチャン・ジュンヒョクのキャラクターはほとんど似ていたから。
ペバは1,2,3回まではのだめカンタービレに似ているという話を聞いたがふたつは完全に違う。単に素材のためにのだめカンタービレと似たドラマに分類されるのは嫌でした。

ペバはキャラクタードラマの成功を見せたドラマだ。キャラクター一つ一つがみな生きている。初めて台本を見た時カンマエをどのように解釈したか。初めにキム・ミョンミンが考えたカンマエと作品の中に描かれたカンマエが同じなのか。
最初に考えたとおりだった。率直にキャラクターはが変わらない、状況が変わるということだね。初めにシノプスを読んでキャラクターを把握したそこから変わらないで最大限一貫的にする。だから撮影で条件が変わったり台本が変わって人物に変化がおきるのは耐えれない。キャラクターに納得しなければ演じることは大変だ。なので序盤に把握したキャラクターをそのまま生かそうという主義だ。 ドラマ中間に若干の揺れることがあった。そうじゃないと思うのになぜカンマエがこうしなければならないか…そんな時は少し大変だった。

カンマエは中毒性が強いキャラクターだ。 何故こういう人間がいるのか運悪くある瞬間感情移入をすることになって終盤にはカンマエの捕虜となる。
人は誰にでも両面が存在する。カンマエは両極端的な性格を持っている。 これでなければあれ、あれでなければこれ、他の見方をすれば単純だ。他の人々が見るには単純だが内面は複雑だ、他の人にはその複雑さを絶対に見せないだけだ。 人に傷を非常に与えただけ本人も傷をたくさん受ける。

初めにはカンマエの演技に慣れなかった。 声優のように作為的に話すのが見慣れなかったし。 韓国ドラマでは見るのが難しいキャラクターではないか。
私はカンマエが我が国の人々ではないと考えた。 韓国で生まれ韓国の名前を持っているが我が国の人の姿ではなくても良いと考えました。
ベートーベンが精神的な支えで、ベートーベンをいつも考えて、自分がベートーベンのように勘違いして、自分の音楽をありのまま演奏して指揮する人。
違う見方をすればベートーベンは存在しない人。死んだベートーベンとどんなインスピレーションを持って交流をしているかはわからないだろうがベートーベンのまた他の姿を見せることが私の目標であった。
保守的な思考や行動様式に制約を受けたくなかった。
海外を見ればその人々が言う時、彼らだけの語り口と語法がある。そんなことでたくさんヒントを得た。もちろんその人々文化と私たちの文化が違うからよく受け入れられなかったかも知れない。
映画<不滅の恋人>のゲリーオルドゥモンを見ると音楽家の意地と精神が見える。
その国の人特有の語り口と身振りはとても参考になった。
それを我が国に持ってくれば良いだろうか? オーバーで毒舌なのがまた音楽家の特性だ。
幼い時から天才と認められた彼らは価値観や世界観がひたすら音楽と自分自身に注がれている。 なのでとても非妥協的で我執が強い。
天才であるほどそんなことが激しい。 実力指向主義社会だから実力が不足している思えば毒舌を情容赦なく飛ばす。なぜ毒舌に身動きできないのか、彼らが反論できない論理と弁舌を持っているためだ。
最初は作家先生の台本どおりにするがひとまず論理整然に話をしなければならない。 そのためには言葉を流してはいけなくて、一言一言かちかちの耳に打ち込まれるようにしなければならないと考えた。
あたかも声優が話すように発音が明確でなければならないという強迫観念があったし早口にしなければならないと考えた。
容赦なく早く話してこそ相手を圧倒させることができる。その多くの台詞を早く言うためには集中力が他の時よりさらに多く要求された。
台詞覚えるのにもストレスが多かった。練習が完全でなければいけない語り口と話法だった。

実際にカンマエと同じ人が良いのか。
悪いことはない。 カンマエがこういう反響を起こすとは思わなかったがカンマエリーダーシップまで出てくるのを見れば指導者の資格は充分だと見る。 もちろんおとなしくできるが少なくとも指導者ならばそのようなカリスマが必要と考える。特にオーケストラを導くならばの話だ。 70人を越える団員中で誰かがよそ見をすれば不協和音が出やすい。

カンマエが孤独でかわいそうな人に見えて憐憫も感じた。カンマエを演じて最も憐憫を持ったか。
周辺に人がいなくて 孤独な人間だからね。

それを本人自らよく知っている。 自ら招いたこともである。
そうするほかはないのだ、彼は音楽を愛するから。それが自らの自尊心であるから。音楽に対する情熱と音楽に対する解釈能力はカンマエを超える人がない、だが人に対する処世術がなくてひとつのオーケストラに長くいることができなくて、いつも他のところに転々とする。それでも人々が彼の実力を認める。彼は派閥を重視する人でない。実力があれば無条件に認める。そのような面で真の指導者像という話が出てきたのではないのかと思う。

カンマエ症候群が起きたことは我が国にそのようなリーダーがなかったためだ。韓国の人々がとりわけ艶がなくてきつい男に熱狂をするようだ。 カンマエに熱狂するのもちょっと格別な感がないわけではなくなっている。
彼の姿がそれだけ現実的に近づいたからではないか。非現実的な人物を作りたいといったがそれは古典時代から来た人を作りたいという言葉であって、その人の行動が非現実的という話ではない。 その人が吐きだす毒舌と行動に共感をしたり最小限気がせいせいするように理解できるから好感を持たれたのではないだろうか。
理解される人物を作ることが私が演じる時、最初に目標にすることだ。 まったくの悪人はいない。 殺人犯でも愛することができて理解される面がある。 表面だけつるつるとして中にどんな真正性がない人物は演じても退屈する。 韓国の人々には中にギュウギュウ隠して抑えられてきた本能的な心理が明確にある。小学校の時から社会に出ても常に競争する雰囲気があり誰かをなぎ倒してこそ私が上がることができるという生存本能がある。 内面に位置しているそのような本能をチャン・ジュンヒョクがよく触ったようで、カンマエは今のように難しい時期に、カンマエのような指導者が現れて、私たちの夢を実現することを願い熱狂したのではないか。



もうキム・ミョンミンという俳優に対して論じる

無名時期が長かった。 人気がない時どんなことを考えたか。運がないとか佗びしいと考なかったか。
1996年にSBS公開採用でデビューしました。
端役だったが一緒にデビューした同僚より私がはるかに忙しかった。
美男俳優は主演級の出演を期待して作品を待っている時、私は色々な端役で出演して彼らよりはるかに忙しかったし収入も多分多かった。
演じながら運がないと思ったことはない。
人々が私を記憶しなくてはそれほど重要な問題でない。私を疲れさせたことは純粋に私自身だった。
私が私自身を判断すると、自ら発展がないという気がするからだ。
私がここでこれくらい見せたいがそれができない。 そんな時大変だったし、それで移民も考えたのだ。

最近3、4年間に俳優としてあなたの人生は多くの変化があった。 他国へ移住したらどうだったろうか。 惜しくて。
変わった人生が悪いとは限らない。
それでもその時外国に移住したら大変なことになるところだったとしてもそう思わない。
私が今まで演技ができるようになったのは<不滅のイ・スンシン>という作品があったためだ。
だが当時の私の人生の目標はニュージーランドで良く食べて楽に暮らすことだったし、当時は事業家で上手くいけると考えていた。
自信があったし俳優をする時よりさらに多く金を儲けることができると考えもした。
しかし私は<不滅のイ・スンシン>を選択した。人生の目標をどこに置くのかが重要だ。
私が俳優を選択したのは今考えれば空の意ではないのかと思う。金を儲けるのに執着せずにいやしい私の演技で人々に希望と夢を抱かせろと。
私は本来一度決めたことは後悔や未練を持たない性格だ。
恋愛する時もいくら好きでも一度別れれば終わりだ。 ちょっときつい隈があるが、そのような面が私は好きだ。優柔不断なのはとても嫌いだ。

カンマエと似ている。 カンマエと自分が似ていると考えたことは多くないか。
似ている点はリップサービスができないところ。何も持たなくて秀でたもないが自尊心はあって卑屈モードは嫌いだ。他の人々に惜しい声のようなもの絶対できないタイプだ。

幼い時はどんな子供だったか。
人の前に立つのが好きだった。学校で学芸会や演劇のようなものをするときは前に出て演技したし、上手だと褒められればとても喜んだ。遠足に行ってもこの班あの班と踊るのに遊ぶことができなかった。 人気投票すれば1位で….

友人らの間でリーダー役割をするようだ。
自分からそう思ったことはない。金玉の友人5人がいるが私が計画したことに常に従うことになる。 なぜなら私の計画が一番良いから。即興的な案を出しても私のプランが最も良いという反応が多いくて、 そのうち自然にリーダーの役割をすることになる。 とても偉そうですか? (笑)

血液型がAB型だ。 カンマエを見てAB型のようだと考えた。
人々がAB型を嫌うが私がAB型なので良い。
カンマエは自分の言葉がすべてだが、私は相手をとても配慮しようと努力します。
カンマエと似ていた点? そういう部分があることはある。 できないのは見られないということ。
何かに対して批判し始めれば赤裸々にする、鋭く全て引き出して殺伐に話す。 誰かが嫌いになり気にくわなければ最初から言う。 誰かの大きい短所が見えれば他の長所を見ようと努力しないで、あの人は違うと断定する。

どんな人が特に障るか。
約束時間を破ることが本当に嫌いです。毎度習慣的に30分ずつ遅れる人がいるしそれをすまないと思わない人もいる。何度か反復されればいくら人間性が良くてもその人ではないな、追い抜いてしまう。 約束を守らなければ信頼感がもてない。

<不滅のイ・スンシン>時からか。 将軍、医師、指揮者、 実際の年齢よりちょっと年齢がある役をした。 メロードラマに出てくる30代初めの柔らかい男キム・ミョンミンが想像できない。 とても新しい役をしたのが次の作品を定めるのに邪魔になるようだ。
人々は見たままをそのまま信じる。 私がイ・スンシン役をして‘将軍イメージをどのように脱ぐか’と深刻に考えることが私自身を閉じ込めることだ。 男の3代ロマンの中で大統領以外はすべてした。 それ以上がオディンナ. スベスベしたメローちょっとしなかったと問題になることとは違うようだ。 そしてもう40代だが、ドラマを見る子供たちからおじいさんまでみな共感できることが重要だろう、年齢は問題でない。 そしてすべての人にはメローが明確にある。 そのために女性も好むことができたのだ。 メローというものがティーンエージャーが好むほやほやと甘いメローでだけを意味することではない。

わざわざ日常時にきついふりをするためにあまり寝なかったと聞いた。
カンマエのように行動しなければ感情が鈍るのでずっとそうしようと考えた。 まさに演じなければいけないから。
どうするかを考えてまさに演技することと、別のことを考えて演技するのは違う。
私が今日何を食べるべきだと思えばそれを食べることになる。しかし何かそれを食べるべきと思っても、他の人に会ってふざけて遊んでいたら後ほど忘れて違うものを食べることになる。

自己暗示をたくさんするようだ
そうだ、 何でも考えた通りなる。 私は当然カンマエを演じるから常にカンマエを考えていた

音楽は持って生まれた才能が重要なようだ。 演技もそうだと思うか。
持って生まれた才能が最初からないのに努力だけするというのは難しいが、持って生まれた才能が多いが努力をしないのもいけない。 誰かが持って生まれた才能を見せることができるのはそれだけ努力をしたためだ。 努力をしたのでその才能が見られるのだ。 演技は努力をしなければ才能も埋められる。

自分に最も不足だと考える点は何か。
常に不足だと考ます。 今でもお手洗いでボールペンを噛んで練習するほどだから。
10年が過ぎても容易ではないよ、そう容易じゃない。 いつも新しい挑戦です。
人生において私のロールモデルはロバート・デニーロだ。 彼の演技を見ればまだ私は先が遠いです。

練習の虫と聞いた。 指揮練習をしながらなにが最も大変だったか。
楽譜を覚えるのが大変でした。 パート別に分かって音色を私がわかるべきなのに他の人が数十年間勉強したことを5ヶ月で私がどうしますか。
基本はひとまず覚えることでした。 反復練習してどのパートにどんな音が入ってくるのかずっと聞いて馴染んだ。 楽譜を見て指揮をするなら指揮が半拍子先んじなければならない。音楽を聞いて指揮をしてはいけない。指揮者がどれくらい重要かといえば指揮者が指揮を下手すると演奏が烏合の衆になる。 ベルリンフィルハーモニックがなぜ有名だろうか。



最後に、韓国のひとりの男としての人生を話す

結婚を早くしなかったら、自分の演技パターンや俳優としての人生が変わったと考えたことがあるか。
俳優として経験をたくさんすることは良いことです。 結婚も子供を産んで育てるのも俳優として邪魔になりはしない。経験の幅が広ければ演技の幅も広くなる。道徳性に背かない範囲内で多様な経験をすることが良いでしょう。

家庭的だと噂になった。
それでも一度作品入れば忙しくてなにもできない。
妻は私が作品入れば私を自分の夫でないと考えてくれる。俳優キム・ミョンミンだと思い、家をしばらく出て行ったと考えるのだ。それが妻の内助の方法だ。
夜明けに遅く帰っても台本を見て寝るのに、朝私が目覚めるかと思って息子を連れて散歩を出て行く。 過ぎてみると常に感謝しています。それで撮影が終わればできるだけ家族といっしょに時間を過ごそうと努力するのです。

息子は演技者のパパを自慢するか
聞いたこともないしよくわからない。 今回オーケストラ団員を叱りつける場面を家で練習して“お前らは犬、 私は主人だ。 無条件に言うとおりにしろ” ドアを閉じて練習したのにある日見ると息子がその台詞を言ってたよ。その次からは家で練習する時は特に注意しました。

俳優として生きるとき最も大変な点は何か。
他人の人生を生きるのが大変だ? それはオーバーだ。
やりたくて演じるのがなぜ大変なのか。
ただし演技以外に私が守らなければならないことが多いということが時々大変だ。
俳優は公の人だ。 ここで公認の意味は社会に影響を及ぼす人物という点からだ。それで守らなければならないことが多い。一般人がしても罪がならないのが公認がすれば罪となる。私生活の自由が保障されないということだ。
そんなことに押し黙っているように生きていく方だが気持ちが良くない時がある。私は没頭したいだけなのに、外部に露出している時は没入に邪魔になる時がある。人が多いカフェとか撮影する直前に台本を見ているのに動物園の猿のように見物されれば、これをはやくするべきなのにできない場合が多い。

映画とドラマを選択する時、基準がちょっと違うような気がした。 作品を選択する時は何を見るか。
作品性、完成度、キャラクター、 みな重要だ。
映画はシナリオに全て含まれる。 単発性で終わる一つの事件を扱うのが映画なら、ドラマはある人物を長時間立体的に見せる。 そういう意味ではドラマがさらに魅力がある。


演技者を俳優とスターと分ける時、キム・ミョンミンは明確に俳優だ。彼の俳優としての資質と演技力を疑う者はもうこの世の中にない。
俳優とスターに分かれる時、そのスター以外にスター性というものがある。
注目されたくて焦る人が如何に飛ぼうと努力してありったけの力を込めてもスター性がないこれらは真の意味のスターにならない。 映画スター、ロック スター、偶像のスーパースター、アイドル スターがあえて見渡すことはできない真のスーパースター。
キム・ミョンミンにはこのスーパースターの気質がある。
歳月を重ねたことで成し遂げたものであり、持って生まれたものでもある。
もし彼が本当に演技をやめて移民したとしても、あるいは演技以外の仕事をしていたとしても、彼が話したようにキム・ミョンミンはその分野でスターになっただろう。

キム・ミョンミンのスター性は強い自己確信とカリスマから始まったのだ。 キム・ミョンミンは海外撮影に行った艶がなくて邪魔されたくない通常の俳優らと確かに違った。
彼は部屋にいた時間以外は全てスタッフと時間を共にした。
楽しい話題で会話を導き、約束の時間にはいつも先に来てスタッフを待ち、ニースとカンヌ市内に行った時も汽車とバスに乗って地図を見てチームをリードした。
レストランで席に座る時もフォークをとる時も歩く時も彼は全てのことを計算する人だ。
如才ない計算や利害の計算でなく、ち密で計画のとおり動くということだ。
鳥瞰図を見るように遠くから行動する自身を見下ろす彼がいる。
雰囲気を盛り上げるために愉快な冗談を言って対話に疎外された人がないのか周辺を見回す。自身のために大変な人がないのか人々が何を望んでいるのか覗いて見る。
それで彼の粗雑な冗談は粗雑でなくて、撮影する時の恐ろしい集中力は格別でなくて、端正な身なりは負担にならない。 それがまさにキム・ミョンミンのスター性だ。
他の人々より優秀で君臨するスターでなく、他の人たちを包み込むようなスター性。一人だけ優秀なのでなく周辺を照らす暖かい光を持った人、内面に確固とした光る星を持ったこのスターは永らく輝くだろう。

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